お江戸のおはなし Vol.15 芝居小屋と忠臣蔵
芝居小屋と忠臣蔵
お江戸には俗に江戸三座と呼ばれる中村座・市村座・森田座の三つの芝居小屋があり、人形浄瑠璃や歌舞伎の上演が行われていました。中でも「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」「仮名手本忠臣蔵」の三作はどれかを演じれば必ず客が入るほどの人気作品。赤穂浪士の討ち入りという事実を芝居で取り上げることは幕府から固く禁じられていたので、設定を変えながら演じられていたようです。五世松本幸四郎や初代中村仲蔵、市川團十郎など人気の高い役者にちなんだグッズが開発、販売され芝居見物に来た女性客が争うように買い求めていました。その様子は今も昔も変わりませんね。
仇討ちを果たした赤穂浪士たちが主君の眠る泉岳寺へと向かったルートに永代橋があります。深川・富岡八幡宮の祭礼で詰めかけた群衆の重みで橋が崩れ、1500人もの人々が命を落とした後に架け替えられたものでした。その永代橋を渡り浪士たちが泉岳寺を目指した道筋は隅田川から江戸湾というお江戸の名物。そこを舟を使って金杉橋まで向かう途中には、御厩(おんまや)河岸の渡しと呼ばれる乗舟の渡しがあり多くの人に利用されていましたが、お客の乗り過ぎでよく舟が転覆したので「三途の渡し」というありがたくない異名を持っていました。さて赤穂浪士は永代橋をくぐった右手正面の鉄砲洲の赤穂浅野家屋敷前を通り汐留橋を渡り金杉橋から東海道を経て、主君が眠る泉岳寺で仇討ちの報告をしたのでした。武士も町民も赤穂浪士討ち入りに大いに沸き立ち、忠義の心に感動して浪士たちの赦免を求める声が上がったほどだとか。大名の中からも寛大な裁きをするべきとの意見も出たそうです。この忠臣蔵が英雄伝として後世に伝えられたのには江戸市民の情の深さが関係しているのかもしれませんね。
(「お江戸案内パッケージツアーガイド」(人文社刊)を参考にしています。)