お江戸のおはなし Vol.10 江戸時代に誕生した観光大国

 

江戸時代に誕生した観光大国

 

徳川家康は全国統治のために道路整備と制度改革を進め、二代将軍秀忠の代で日本橋を起点に五街道を定めました。治安維持のために至る所に関所が設けられましたが、観光目的の旅行が初めて庶民にとって身近なものとなったのもこの時代でした。厳格な関所を通過するためには、身分証明書である往来手形(檀那寺が発行)と関所手形(居住地域の奉行所が発行)を申請し、関所で提示する必要が出てきたのです。特に箱根の関所は幕府から業務委任された小田原藩士が担っており、関所に詰める足軽の母や妻が人見女として出女(江戸から出て行く女性)の取り調べに当たりました。まず役人が手形の文面を一読したあと人見女に取り調べを命じ、人見女は関所手形に記述された特徴を中心に髪を解くなどして本人確認を行います。取り調べの結果本人に間違いないと人見女が報告すると、晴れて関所通過の許可が役人から降りるという流れで、事実上、人見女が関所通過の決定権を持っていました。人見女が本人と断定できないと言えば通過の許可が下りず、手形の作り直しのためにもう一度江戸まで戻らなくてはなりません。手形の作り直しの時間と手間、往復の旅費もかかるし日程も遅れる。こうなると、人見女の心証を悪くしないよう袖の下を使う出女が出てきます。この金銭は袖元金と称されいつしか相場まで生まれますが、これを知った幕府も取り締まりはするもののこの慣行をなくすことは出来なかったようです。関所手形についても同様に金銭が動いて、奉行所の処理能力を超える申請書が持ち込まれたために箱根関所の現場もパンク状態となり、関所手形がなくても怪しいことがなければ通過させたという事例もあったとか。ついには関所破りを商売とする案内人まで登場し、一番厳しい箱根の関所がこの状態となれば、その他の関所に至ってはなおさらでした。袖の下が関所の有名無実化に拍車をかけた結果、旅人を増加させ、観光大国を誕生させたのです。

(安藤優一郎著【「街道」で読み解く日本史の謎】を参考にしています)