お江戸のおはなし Vol.14 両国・隅田川

両国・隅田川

1657年、江戸城をも焼失した明暦の大火は死傷者10万人を出しました。原因は、隅田川に千住大橋しか架けられていなかったから。そのため、焼け出された人たちの逃げ場がなくなり、大惨事になったのでした。それを教訓として、1659年の両国橋を皮切りに永代橋、新大橋、吾妻橋が架けられました。観光名所でもあった隅田川に架かる橋のなかでも特に人通りの多かった両国橋を渡ると、橋の西側には火除け地が設けられました。火除け地とは火災の延焼を防ぐために設けられた防火帯です。そこは広小路(現在の東日本橋)と呼ばれ、午前中は青物市場で賑わい、午後からは茶屋、居酒屋、料理屋、船宿、芝居小屋、見世物小屋などで大歓楽街と化しました。隅田川の名物といえば屋形船と少し小ぶりの屋根船での夕涼みです。江戸の夏を彩る両国の花火は、8代将軍徳川吉宗が享保の飢饉で餓死した人々の供養のために始めたものが風物詩となりました。隅田川は両国橋を歩いて渡り、帰りには江戸の女性にも大人気の粋でいなせな船頭の渡し船に乗るのがおすすめだったとか。両国東詰めの盛り場を抜けたところにある回向院は、明暦の大火で亡くなった人たちの塚に建立されたお寺です。ここは諸国の寺社の秘仏や霊宝を一般に公開する出開帳でも有名で、出開帳の期間は特に多くの人で賑わい、お札やお守りなどが販売されました。大名のイベントだったものが、寺社の建立や修繕改築の寄付を集める名目で幕府が庶民に許可するようになったのが勧進相撲で、歌舞伎、吉原と共に江戸の三大娯楽と呼ばれました。興行は春と秋、一場所10日ずつですが、お江戸の時代は残念ながら女性が本場所を見学することは許されませんでした。
(お江戸案内・パッケージツアーガイド 人文社発行を参考にしています。)