お江戸のおはなし Vol.8 江戸町会所の持続化給付金

 

江戸町会所の持続化給付金

 

享保の改革から約半世紀後の天明期には、再び天候不順による大飢饉が日本を襲います。折からの冷害に追い打ちをかけるように、日本の噴火による災害として最大と言われる浅間山の大噴火が起こり、東北や北関東を中心に餓死者が出るほどの大飢饉となりました。そこに米価を釣り上げて暴利を貪る米屋の買い占めが拍車をかけ、窮民たちの怒りは爆発。米屋の居宅を壊し、蔵に貯蔵された米を撒き散らす打ちこわしが起こります。社会情勢の悪化に対し、幕府は買い占め・隠匿行為を禁じ、時価では買えない窮民を対象に米の廉売を開始。米価を引き下げることで不穏な情勢を鎮静化しました。しかし関東の大雨と100年に一度の大洪水で物価は再び高騰し、幕府はその日の食に事欠く窮民にお救米の配布を実施します。それでも高騰は続いたのにも関わらず、町奉行所が町民の窮状を訴える声に対処しなかったことから、大阪を皮切りに全国に打ちこわしが波及。その結果将軍のお膝元である江戸も、数日の無政府状態に陥ったのでした。

町奉行の首が飛んだこの事件が政変のきっかけとなり、東北で大飢饉でも一人も餓死者を出さなかった松平定信が幕閣のトップとなりました。徳川吉宗の孫である定信は、三つの事業を柱として掲げ、江戸町会所を設立したのです。①飢饉に備えた備荒貯穀の充実のため、都市に社倉を設置、②米を所持する長屋が焼失した場合の普請費として、地主への貸付、③火災や病気のため生活困難に陥った窮民の救済、です。さらに、感染症流行時に打撃を受ける商売である銭湯、髪結床、芝居小屋、料理屋、呉服屋、遊郭などの盛り場は火が消えたような状態となり、不況は避けられないと判断した定信は、お救金の給付を決定します。何より困窮者へのスピード感ある生活費、今で言う持続化給付金の支給こそが、江戸の都市崩壊を回避した政策だったのです。

(安藤優一郎著「江戸幕府の感染症対策」を参考にしています)