お江戸のおはなし Vol.9 幕末のコレラ騒動と攘夷運動

 

幕末のコレラ騒動と攘夷運動

 

天保期に入ると冷夏・長雨・洪水で大凶作となり、江戸の三大飢饉の一つ、天保の大飢饉が始まりました。全国では米屋の打ちこわしが頻発。しかし江戸では、町会所による定式御救を繰り返すことで都市崩壊を免れていました。ところが嘉永六年、浦賀にペリーが来航し、江戸の街は大混乱に陥ります。戦わずして外国の武力に屈した幕府が朝廷抜きで日米和親条約を締結させたこと(開国)を皮切りに、イギリスやフランスなどとも締結。さらに、ペリー来航の年には、インフルエンザが大流行したり天皇の御所が火事で焼失したりマグニチュード8.4の安政東海地震が起きたりしました。この地震に誘発されて翌日にはマグニチュード8.4の安政南海地震が起き、両地震により津波の被害が拡大したのです。世の中の鎮静化を願い、朝廷では改元の準備をしていましたが、時流は激動の幕末へと突入していきます。翌年の10月、マグニチュード7の直下型地震が江戸を襲い、町人地も武家地も甚大な被害を受けたため、すぐさま町会所を中心に被災民の支援に着手しました。備蓄米を大量放出させ、避難所に当たる御救小屋を作り、炊き出しも行って豪商や近隣同士の助け合いで江戸の人々の心も落ち着いていきました。復興に向かう中、江戸では鹿島神宮の要石が地中で鯰の頭を抑え込んでいる構図の錦絵「鯰絵」が大量に版行されて人気を呼びました。多くの人が財産を失う中で、材木商や大工、左官などの職人は復興の過程で富を蓄積しました。幕政では安政の大獄、桜田門外の変が迫っていた頃、江戸はコレラで大きく揺れます。長崎に上陸したアメリカの船員がコレラ感染源となり、江戸にまで到達。コレラは死亡率が高く「三日コロリ」と称されたほどでした。開国、大飢饉、大地震の上に欧米から持ち込まれたインフルエンザ、コレラの流行が人心を攘夷(外国の侵略を撃退する思想)へと駆り立てますが、新政府軍による江戸城無血開城で二百六十年余り続いた徳川幕府の幕が下りたのでした。お江戸の人々が数々の災厄を乗り越えたことが、現在に繋がっているのですね。(安藤優一郎著「江戸幕府の危機管理対策」を参考にしています)