徳川家康がまだ荒れ地のような関八州に左遷された頃の経済状況は、取引の度に天秤や分銅で金、銀の重さを量り重さに応じて輸入銅銭と交換するなど、非常に煩雑なものだったようです。
政府の信用という概念がないから自分の身は自分で守る、自分の金は自分で目利きするという商人たちの当たり前の覚悟があったといいます。
この頃の豊臣秀吉は明の征服という野望に取りつかれ、大名達を朝鮮に出兵させる準備に忙しく、家康から江戸に金工派遣を要請されてもあっさりと承諾しました。
江戸に着任してから丸3年でも江戸城は完成していない。
天守もない、屋根に瓦もない平屋の建物という状態の中で“江戸をゆくゆく天下一の街にするには独自の貨幣を持たねばならぬ”と家康は構想実現のため着々と手を打っていました。
家康が派遣を依頼した京都の後藤家は、織田信長、豊臣秀吉などに重宝され五代で100年かけて培った金工技術を持つ家柄でしたが、家康がターゲットにしたのは後藤家の腕の立つ職人であった橋本庄三郎でした。
秀吉はもっぱら後藤家に十両の大判を鋳造させ大名たちに褒賞として与えていましたが、家康は庄三郎に一両小判の製造を指示。そうこうするうちに秀吉の死、関ヶ原の戦い勝利をもって遂に徳川の時代がやってきました。
関ヶ原の翌年には地名表示のない小判、全国に等しく流通することができる単なる小判を発行します。
これこそが日本史上はじめて貨幣の面で天下統一を果たしたものであり、補助通貨の一分金(一両の四分の一)も鋳造し、枚数を数えるだけで正確に額を共有できる計数貨幣が主流となり、常識となりました。今日の私たちの経済活動の習慣はこの時定まったのでした。
庄三郎の役宅があった場所は、後に町割りが行われて橋が架けられその橋の名に合わせて日本橋と呼ばれることになる土地で、21世紀の現代、そこには日本銀行本店があります。
(門井慶喜著 「家康、江戸を建てる」を参考にしています。)