医療改革と小石川養生所設立
将軍徳川吉宗は幕府政治の立て直し断行と共に、感染症を始め医療改革にも力をいれました。戦乱の世から太平の世になり、人々の生命を守ることも仁政と考えたからです。学問も法律・農学・天文学・気象学・医学・薬学・蘭学と実学への関心が高く、城内に雨量測定の桶を置き記録を収集・分析して洪水を予知し、洪水後の迅速な救済や復旧に役立てました。また鎖国のために自給自足を強いられた幕府には農産物の国産化が焦眉の急でしたが、自ら調剤、製薬ができた吉宗は特に薬草の供給体制整備に力を入れました。全国の産物調査のため医学知識を兼ね備えた学者が各地に派遣され、現地では薬草を運ぶ人足、道案内人のほかに村役人、医師、薬屋なども同行させて、薬草の知識や情報を独占するのではなく、開示を積極的に行いました。特に、国内でも不足しがちな銀の輸出と引き換えに輸入していた朝鮮人参の国産化は、幕府の悲願。密かに人参の種を入手し、試験栽培を成功させ、広く栽培できるよう種と苗を配ったのです。
この時代も感染症による死者の多さに土葬も火葬も順番待ちで、やむなく品川沖に水葬していたほどでした。また、江戸には出稼ぎにきた一人暮らしの男性が多く、彼らは日雇いで生活も苦しく、病気になれば薬も買えずで悲惨な状況でした。そのような惨状を見た多くの人が、当時吉宗が設置した目安箱に施薬院設立の願いを訴え、小石川養生所設立へと向かったのでした。養生所は病人が養生できる場所であり、費用は無料でしたが、「無料なのは人体実験場だから」とか「粗末な薬を使っているからだ」などと風評被害もあり、初めは入所希望が少なかったようです。時代劇で有名な町奉行大岡忠相らが行政システムにメスを入れると同時に、生活困窮者への米や金銭の支給も開始されました。これがベースになり後の寛政改革の時には火事や病気、感染症を理由とする給付金制度が確立されますが、それが江戸の都市崩壊を防ぐ歴史的役割を担ったのでした。まさにコロナ禍にあえぐ現代に通じる話でもありますね。
(安藤優一郎著「江戸幕府の感染症対策」を参考にしています)