前回は徳川家康の江戸の地ならしのお話でした。
次なる課題は家康自身が住むことになる江戸の町に飲み水を引くこと。
泥湿地に良質な地下水は得難く、井戸を掘っても塩辛い水では飲むこともできないだろう飲み水確保は最大の課題でもありました。
この“江戸で飲み水を引く”という大任に生きた人物が三人いました。
まず家康が命じたのは、なんと菓子作りが得意な家臣、大久保藤五郎。
良い菓子にも、菓子に添える茶にも良い水が必要だし、その味を味分ける舌の持ち主だったから。
最初の15年間は赤坂の溜池、神田明神山岸の細流の水を江戸市中に網羅し、それまで水を汲みにいかねばならなかったのが“水が飲まれにきてくれる”環境になりました。
しかし土地の整備によって可住面積が拡がり、人口が増えたことで水が足りなくなってしまったのです。
井戸に水がたまらず、母親が赤ちゃんを連れて故郷へ帰る例が頻発。
水を飲めないとお乳もでないという状況でした。
結果、男の一人暮らしが増え、人口増加は頭打ちになり江戸の発展は望めない。
その事態を回避するために家康が次に水を引くよう命じたのが内田六次郎という名主に属する百姓の男でした。
六次郎に湧き水のある所に案内させ、自ら味を確かめてその水を江戸市中に引くように命じたのです。
それが七井の池と呼ばれた現在の井の頭公園でした。武蔵野の大地は西高東低の巨大な下り坂で、井の頭→下高井戸→落合→目白→江戸市中と丁度√の形を描いて上水工事が進みました。
ところが江戸城の外濠にぶち当たります。
そこで日本初の川同士の立体交差工事を春日与右衛門という高度な技術の専門家が手掛けます。
立体交差することで神田・日本橋・京橋などの郭内に水を引き込む神田上水が遂に完成したのです。
神田上水の維持管理にかかる膨大な日常業務として水量の調整、枡の浚渫、水道使用料の徴収など現代に引き継がれている水道事業の原型がここにできあがったのでした。
お江戸の歴史を紐解くと、意外で新鮮な発見に出会えますね。
(門井慶喜著 「家康、江戸を建てる」を参考にしています)