お江戸の感染症
家康の都市づくりで人口が増加したお江戸。人口が集中すると感染症の被害も大きくなるため、人々に恐れられたのが「疱瘡」「麻疹」「水疱瘡」でした。いずれも一生に一度しか罹患しないため、子供のうちに軽く済ませたいというのが人々の願いでした。疱瘡は天然痘ウイルスによる感染症で、膿疱がかさぶたとなって剥がれた跡が痘痕(あばた)として残ることが多く、容姿の変貌に苦しむ人も多かったとか。疱瘡が重篤化して失明した独眼竜・伊達政宗や、還暦をこえてから麻疹にかかり帰らぬ人となった徳川綱吉など、歴史上の偉人たちも被害に遭いました。治療法も薬もないとなると、予防や治療の情報収集に人々が狂奔するのは今も昔も変わりません。効果があるとされた食べ物や薬の価格が高騰する一方、タブーとされた食べ物の生産者は大打撃を受けたのでした。
当時は国家試験制度などはなく、誰でも医者になることが可能な時代。病気の捉え方も多様で神仏による罰、疫病神の仕業、呪詛、死霊の憑依などに原因を求めることが多く、宗教者・呪術師・修験者・占い師など、ある意味誰でも施療者となれたのです。疫神に取り憑かれないようにするために、撃退ではなく祀って送り出そうという考えから始まった風習も数多ありますが、平安時代から続く京都の祇園祭はその代表例です。また疱瘡の患者の枕元に、源為朝や五月人形の鍾馗が疱瘡神を追い払う構図の錦絵(疱瘡絵と呼ばれた)を護符として置き、治癒を祈り、無事に回復したら焼却や川に流すなどしました。同様に麻疹絵も生まれ、麻疹を懲らしめる錦絵に予防法や心得などを書き込んでいました。現代でいう家庭医学書にあたる医者の著書「養生書」も大量に出版され、病気の予防で健康維持することへの関心の高さがうかがえます。江戸中期には薬ブームが始まり、売薬が大量に出回って庶民も競って薬を飲むようになりますが、それによって薬への依存と乱用が社会問題化し始めたのでした。お江戸の時代も現在も、人間の営みは同じなのですね。
(安藤優一郎著『江戸幕府の感染症対策』を参考にしています)